「ええ、どうしようもなく好きでした」彼女はそう言った。僕はそれをぼんやりと一枚のガラス越しに見ていた—「でも、彼は嫌いだったんです」—涙を流しながら。
「悲しい歌はお好き?」彼女はたびたび僕にそう訊いた。僕は「そんなの好きじゃない」と言った。
「雨の日はお好き?」彼女はたびたび僕にそう訊いた。僕は「雨の日は憂鬱になるじゃないか」と言った。「晴れの日の方が楽しみは大きい」というふうに。
「『ダフニスとクロエ』はお好き?」彼女はたびたび僕にそう訊くのだった。それが今までの中で最も繰り返されていた質問だった。「知らないや」僕はそう言った。今はそれが残念でならない。
彼女の名前を僕はどうしても思い出すことが出来ない。昔は思い出すことができていたのだが、そのたび胸が突き刺すような痛みに襲われた。僕は彼女を失った。
この文章の中で、僕は彼女のことを上記の質問より仮に「クロエ」と呼ぶことにする。それがなんだか自然に思えてきたからだ。彼女の名前はもしかしたらはじめから「クロエ」だったのかもしれない。
クロエが言っていた「ダフニスとクロエ」というのは、どうやら古代ギリシア時代に書かれた物語らしい。
富豪の家に生まれたが、捨てられていたところを羊飼いに育てられたダフニス。
同じような境遇を持ち、踊りが得意な、まだ恋を知らない少女クロエ。
その二人の恋物語—、というふうに、本の帯に書かれていた。
僕は思わずくすりと笑ってしまった。そして、唇を噛んだ。ため息をついた。
僕とクロエが出会ったのはいつだったかな。いつのまに忘れたのかな。
そのころの僕はどうしようもなく夢を見たがっていたし、それはクロエもそうだった。
自分が何か特別な存在なのだと言うことを信じて疑わなかった。でも結局、僕はどこの何かでもなかった。ダフニスのように、富豪の父親の迎えは来なかった。彼女も同じだ。
「僕は・別に・特別な・存在じゃ・なかったんだ」。
ちょっと病院に行くのに車を使う。
ラジオからは、悲しげな曲調の歌が聴こえる。いつもなら、当たり障りの無いポップスでも流れている局に変えてしまうだろうが、今は違った。こういうのも悪くない。
車のワイパーが動き出す。
でも、とりあえず今はそんなに憂鬱な気分じゃなかった。
クロエ、今なら在りし日の君に会っても恥ずかしくなさそうだよ。まるでフィルターのように遮っている一枚のガラスを通して僕は彼女にそう言った。
彼女はまるで聴いていないようで、にこにこと笑っていた。
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